蛍の光、窓の雪♪
という故事もそうだけど。
「勉強」というもの。
そこには「よいこと」
というイメージがある。
ある種、それは
無条件に近いくらい良いイメージだ。
そうですよね?
でも「勉強するのはよいことだ」
というその言葉の前には大事な前提がある、
という話が心に響いた。
不登校新聞9月1日号のコラム
「不登校からの勉強のススメ」最終回で
半村進さんが書いていることだ。
「勉強するのはよいことだ」という
その言葉の前にある、大事な前提とは?
それは、、、
「心身のコンディションに無理のない範囲で、勉強するのはよいことだ」。これがより適切な言葉ではないでしょうか。なんだか今の世の中では、「勉強」という言葉に特別な色がついてしまったように思います。
「体を壊すくらいがんばって勉強した」とか「寝る間を惜しんで受験勉強した」というのが、よいことのように受け取られる雰囲気があるのではないでしょうか。「体を壊すくらいがんばってショッピングをした」とか「寝る間を惜しんで散歩をした」とはずいぶん受け取られ方がちがうように思います。
そして半村さんは続ける。
勉強とは散歩のようなものだ、と。
散歩には決まりは存在しない。
何歳から取り組まなければいけない、
というのもないし
1日何分以上という義務もない。
どの道を歩くかという制限もなければ
この歩き方でなければいけない、
という特定の方法も特にない。
無理のない範囲で楽しみながらやればいい。
散歩のように。
これは、本当にその通りだよなあ、と。
僕はよくうちの奥さんと話すのだけど、
教科学習に限らず言うのだけど、
大人が子どもの「学びを愛でる」のは
よくない、と思う。
そして「学び、学び、学び」
って世の中全体、言い過ぎだ、とも。
散歩のようなもの。
それぞれに無理のない範囲で――。
とっても納得の説だった。
こういう少し脱力した感じで
勉強というものを捉えたい。
っていうか、それくらいに
大人も子どもも捉えた方がいいし、
そのほうが楽しく長く続けられると思う。
今日も良い1日を。
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