僕がしっくり来る「待つ」の定義

 

昨日は横須賀に行ってきた。

よこすかひとり親サポーターズ
ひまわり主催の講演会で、
うちの奥さんが話すのを聞いた。

本当にね。

こういう会に出ると、
毎回ながらたくさんの気づきをもらう。

大変嬉しいことに、僕のこのブログを
読んでくださっている方もいて。

ありがたい限りです。

そして昨日も話が出たのだけど、
不登校の子が動き出すのを
「待つ」ということについて。

これは本当に永遠のテーマだと思う。

なんだけど、、、

僕にはとてもしっくり来る
「待つ」の定義がある。

以前にも一度紹介したものだ。

「待つ」ということの意味

2022.11.04

ではあるけれど、みんながみんな、
読んだわけではないと思う。

なのでもう一度ここで紹介したい。

『大丈夫!不登校。』
70人の先輩たちからのエール

という書籍の中にある、
「カウンセラーからのひと言」
の今村泰洋さんの一節だ。

親御さんは、よくカウンセラーなどから、「もう少し待ってあげましょう」と言われることがあると思いますが、では、なぜ待たなければいかないのか。ひと言でいえば、親は子どもの人生の代わりをやってあげることはできないからです。親が子どもの代わりに学校に行って勉強したり、将来、何をやりたいか考えたり、さらには就職したり、恋をして結婚して子どもをつくったり……。そういうことを親が代わりにやってあげることは絶対にできません。

だから、これから先、自分の人生に何が待っているかわからないけど、ぜんぶ自分でやっていくしかないんだと子ども自身が覚悟を決めるまで、親は待つしかないんです。

「待つ」ということの意味は、学校に行けるまで待つとか、本人が動き出すまで待つというよりも、子ども自身の中で自分の人生を自分で背負う覚悟ができるまで待つ、ということなんだと私は思います。

本人が動き出すのを待つんじゃない。

子ども自身が自分の人生を
自分で背負う覚悟ができるまで待つ。
親が子どもの代わりにやってあげることは
絶対にできないのだから――。

これが僕が一番しっくり来ている
「待つ」の定義だ。

はっきり言おう。

これはとても厳しいことだと思う。

だから逆説的なんだけど、僕は今はもう
意識して待ってはいない。

そんなの、
いつになるかわからないからだ。

待つのはやめた。

だからきっと、忘れたころに
「気づけばそうなってた」
ということに、
なるんじゃないのかなあ……。

なんなら、ならなくたって別にいいし。

と、割とあっさり
手放してみたりもしている。

待つのは厳しい。

待つのは大変に厳しいことだ。
いつになるかもわからない。

だから待つのをやめたほうが楽だ。

「親としてそんなことでいいのか?」

という自問は

「いーんです♡」(川平慈英)

と明るく封じ込めちゃえばいい。

だってその方が楽になれると思いませんか?

「そんなふうに楽な道を選んでいいのか?」

というツッコミには……はい、ご一緒に!

「いーんです♡」

今日も良い1日を。

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ABOUTこの記事をかいた人

1972年生まれ。 息子は小学三年生の時に不登校になり、小・中学校には通うことなく卒業しました(現在19歳・大学生)。 不登校や親子関係の悩みについて、セミナーや講座をお届けする「びーんずネット」の事務局を担当しています。趣味はマラソン。不登校をテーマにしたインタビュー事例集『雲の向こうはいつも青空』や各種書籍の出版をしています。