親をおりる

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早起きした日は読書!

ということで読んだ。

特に前半の「生き合おうとする人たちへ」は
僕には響くところが多かった。
本の前半はほぼ全ページ折る羽目になった。

中でも印象に残った箇所をいくつか紹介。

善かれと思ってしているのだが、その善かれは、自分にとっての免罪符としての善かれであって、相手を理解しようという気持ちに裏打ちされたものになっていない。

「あー、わかるわかる」というのは共感ではない。そんな簡単にわかるはずがないのだから。簡単にわかられてたまるか、とも思う。

不登校も「ひきこもり」も状態像だ。状態ということは、行動だから、「気持ちや想い」が変わらなければその行動が変わることはない。そうならざるを得なくて、あるいは本人が装ってそうしている状態だ。それを、「ひっぱり出して」状態を変えて「気持ち」を変えさせようとする。まったく真逆な、出鱈目な話だ。

どうですか?
なかなかの豪速球じゃないですか?笑

「三球三振」がどんどん続くのだけど、
個人的に一番刺さったのはここだった。

信じて待つ。信じて何を待つのか。私の思うようになるのを「待つ」のではない。本人が楽しく生きやすく望む生き方を手に入れるのを待つ。求めず、用意せず、ただ信じて待つ。生まれ持った「生きようとする力」が沸き立つのを待つ。

私が思うようになる――、
それを待つのではない。

求めず、用意せず……。

こうして言われてみるとだけど、
「待つ」ことは厳しいものだなあと思う。

ほとんどの人は何かを求めて待ってるし、
用意もしている。

「見守る見守るって言いますけど、
一体いつまで見守ればいいんですか?」

不登校ひきこもりの親
「あるある」発言だと思うのだけど、
完全にこの言葉の裏には
解決を求めてやまない心がある。
その前段階が見守るという行為になってる。

求めず、用意せず、ただ信じて待つ。
生まれ持った「生きようとする力」が
沸き立つのを待つ。

その通りなんだよなあと。
厳しいけど。

改めてそんなこんなを思った。

もうすでに「引用」の限界を
超えてるのはわかっているんだけど、、、

なにせ良かったし
インプットが多すぎて。笑

最後にもうひとつだけ、紹介したい。

本のタイトルにもなっている
「親をおりる」ということについて。

親が「親」でいる限り、子は「子ども」でいなければならない。しかし、それでは「個人」に戻れない。親をおりて、立場や役割を手離して、個人に、ひとりの人間に戻る必要がある。そうすることで「息子」や「娘」も個人としてのかかわりを手に入れ、ひとりの人間として「自律」していけるのだ。

この「親をおりる」ということがまた!

言うほど簡単なことじゃない、
とは思うのだけど、
とっても良い視点だと思った。

今日も良い1日を。

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ABOUTこの記事をかいた人

1972年生まれ。 息子は小学三年生の時に不登校になり、小・中学校には通うことなく卒業しました(現在19歳・大学生)。 不登校や親子関係の悩みについて、セミナーや講座をお届けする「びーんずネット」の事務局を担当しています。趣味はマラソン。不登校をテーマにしたインタビュー事例集『雲の向こうはいつも青空』や各種書籍の出版をしています。