子どもを信じる、見守る、待つ。
とは言うけれど…。
一体いつまで待てばいいんですか?
こう思う不登校生の親は少なくないと思う。
僕もそう思ってた。
不登校新聞2月1日号
見守るでも働きかけるでもない
子どもから見た親の”待つ”とは
小学校から不登校だったという
喜久井ヤシンさんの記事がとても良かった。
その反応も急かしている
「あした学校へいく」と言えば喜び、
朝になって「やっぱり行けない」となると、
あからさまに落胆する。
これは6年前の3学期の始業式前、
僕も大いに身に覚えがある。
学校に行く行かないで一喜一憂した。
でも子どもの側からすると、
その反応さえも急かされている、
と感じたという。
親の望み通りになることを待っている。
実際に口には出さないにせよ、
ライオンが虎視眈々と子鹿を狙うみたいに
待っていても、子鹿は安心できない、と。
記事の中で僕が改めてそうだよなあ
と思ったのは、次の2つの点だった。
- 不登校の渦中は「社会恐怖症」状態
- 親が生き生きすると子どもも助かる
社会恐怖症状態とは
まず「社会恐怖症」状態について。
不登校で悩んでいるときは、あらゆるものが
自分を攻撃してくるように感じて、
過剰に反応してしまう、という。
進学や就労の話なんてもっての他で、
将来どうするの?という質問は
驚天動地の混乱を引き起こす。
社会恐怖症状態のときに
社会的なものを見せられるのは苦しい。
良かれと思って、親が学校案内や
アルバイト情報誌を机に置いておく。
それは例えるなら幼虫恐怖症なのに、
机の上に幼虫図鑑があるようなものだ。
そして親は口を開けば幼虫の話ばかりする。
せめて家では安心して過ごしたいのに、
そんな最悪な状況を想像してみてほしい、
とヤシンさんは言う。
待つのは問題視をしないこと
もうひとつ、
親が生き生きすることについて。
ヤシンさんが高校生になると、
母親が趣味で登山クラブに入って
家を出ることが増えた。
おかげで不登校に一極集中していた心配が
分散されて楽になった、と。
親が楽しむ姿を見る。
それは社会的なものが喜びをもたらすことを
ヤシンさんに感じさせる効果があったとも。
親が外に飲みに行く。登山に行く。
映画を見にいく。
好きなことをして楽しんでいる。
放任主義になれ、ということではない。
子どものことを気にかけながらも、
子どもの状態を問題視しないこと。
それが子どもにとって、助けになる。
おそらくがんばって待とうとしているうちは、まだ「待つ」ことにならないのだろう。私からすると、「待つ」というのはそれぐらいのレベルでなければ効力がないものだ。誰でもすぐに実践できるものではなく、やはり「待つ」ことは難しい。
日々、親の立場からモノを見ている。
なので、子どもから見た親の
待つことについて、とても新鮮だった。
今日も良い1日を。
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