けんかをやめて

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AくんとBくんが殴り合いのけんかをした。

先生が止めに入って両者から話を聞く。
その上で先生は二人に言う。

「Bくん殴ったのはよくないね。謝ろうよ」
「Aくんも言い方があるよね。謝ろうよ」

そうやってお互いに謝らせて家に帰す。

すると、AくんとBくん両方の親から
先生宛に文句の電話がかかってくる。

結局、間に入った先生が
逆恨みで非難される羽目になる。

――というのが今も
日本中の学校で行われている図だ。

この場合、一体何が悪かったのか?

それは「トラブルを解決するのは学校」と誰もが勘違いしてしまっていることです。

と話すのは元麹町中学校校長で、
横浜創英中学・高等学校学校長の
工藤勇一さんだ。

日本講演新聞2月12日号の記事を読んだ。

工藤先生は続ける。

学校はトラブルを解決する場じゃない。

子どもたち一人ひとりが当事者として
問題を解決していく方法を教える場所だと。

先の例で言うと、具体的にはこうなる。

実際、生徒たちにこんなふうに対応しています。
トラブルになった経緯や今の気持ちなど、さまざま聞き取った後に、必ず二人それぞれにこのことを聞きます。
「明日からも殴り合いを続けたい?」
すると二人とも「絶対に嫌だ」と答えます。そこでこう言います。
「面白いね。二人とも相手を絶対に許さないと言っているのに、明日から殴り合いを続けることは嫌だと一致しているんだね。相手を許したくないという気持ちは変えられないかもしれないけど、殴り合いをすると二人とも困るんでしょ。だったら気持ちは我慢して、殴り合いをしないためにどうするのかの方法について、二人で話してみたらどうかなあ」

こういう繰り返しの中で、生徒は
解決する当事者としての自覚を
持つようになるという――。

これ、まさに、僕ら大人自身に
欠けている考え方だと思いませんか?

完全に自分に向かって言うのだけど、
対立が生まれたときに、僕らは
ろくすっぽ対話をしようとさえしていない。

「お互いに一致している点は何か?」

→殴り合いを続けたくないということ。

「ではそのために、具体的にどうするか?」

そういう建設的な話し合いを、
僕らしようとしいるだろうか?

お互いに一致している部分を
丹念に探そうとしているだろうか?

違いにばかり目を向けていないだろうか?

対話は面倒臭い。
誰かが決めてくれれば話が早い。

でもこうして学校の先生は疲れ果てている。

そして僕らは当事者意識を持てないままだ。

この国全体を覆う閉塞感や行き詰まり感。

それは結局、僕らの怠慢の責任でもある。

工藤先生の話は他にもたくさん良かった。
でもこの部分が一番印象に残った。

思いきり自分に矢印が向く話だったな……。

対話、対話、当事者意識。

今日も良い1日を。

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ABOUTこの記事をかいた人

1972年生まれ。 息子の忍介は書字の学習障害と軽度の発達障害があり、小学三年生の時に不登校になりました(現在19歳・忍者好き)。 不登校や親子関係の悩みについて、セミナーや講座をお届けする「びーんずネット」の事務局を担当しています。趣味はマラソン。不登校をテーマにしたインタビュー事例集『雲の向こうはいつも青空』や各種書籍の出版をしています。