少なくとも、彼らはもう十分に

少なくとも、彼らはもう十分に

帽子をかぶってランドセル背負って、リコーダーやらピアニカやらを持つ小学生を見て、心がざわつくことはない。

なぜだろうか?

とっても小学生らしく見える

小学生であることについて疑念を抱いたり、異議申し立てをしているように見えない

だらしなく見えがちなこと

なんでもマラソンに例えるのはランナーという種族の良くないところなんだけど、

きっとこれって、一生懸命走っているランナーみたいだからだ、と思う。

一方で。

30km過ぎて歩いているランナーは、だらしなく見えがちだ。

走るべきマラソンにおいて歩いている。

根性が足りないし、全力を尽くしていない。

辛いからって、怠けている。

沿道で応援する人には、そんな風に見えるんじゃないだろうか?

実は。

白状すると、僕もかつて彼らを追い抜くたびに、ちょっとそう思っていた。

実際、自分が歩くことになるまでは。

実際、自分が経験してみて思ったこと

忍介通信13の追伸で触れたけど、急に膝が痛くなって、27kmでまったく走れなくなった。で、残り15kmを歩き通した。

歩いてしまう羽目になってみて初めて分かった。

本当に走れない時もある、ってことが。

っていうか、本当に走れないから仕方なく歩いている。

とても不本意だし、すごく嫌だ。

でも何をどうしてもこうしても、とにかく走ることが出来ない。

だから、歩いている。

 

そんなときに応援は残酷だ。

実際、歩いている間にこんな言葉をたくさんもらった。

「まだまだ、これからだよー」

「足が痛いの気のせい、気のせい」

悪意がないのはわかっている。

励ましてくれようと思っているのもよくわかる。

でもね、何度も言うけど本当に走れない時もあるんです。

「気持ちが大事!気持ち、気持ち」

「まだまだ行けるよー」

そうやって応援されればされるほど、惨めになる。

泣きたくなる。

気持ちの問題なんかじゃないんだ。

傷ついている人たちへの接し方

だから、あなたがもしマラソンを沿道で応援することがあるならば、どうか歩いているランナーを励まそうとは思わないでください。

彼らはもう、十分に傷ついています。

鼓舞しようとしないでほしい。

そっとしておいてほしい。

***

って昨日、応援されることの嬉しさを盛大に書いたので、一応その逆の場合もあるってことを書いておこうと。

思ったのだけど、書いていてコレ、不登校も似たところがあるような気が、ふとして。

 

少なくとも、彼らはもう十分に傷ついている。

そう思った。

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ABOUTこの記事をかいた人

1972年生まれ。 息子は小学三年生の時に不登校になり、小・中学校には通うことなく卒業しました(現在19歳・大学生)。 不登校や親子関係の悩みについて、セミナーや講座をお届けする「びーんずネット」の事務局を担当しています。趣味はマラソン。不登校をテーマにしたインタビュー事例集『雲の向こうはいつも青空』や各種書籍の出版をしています。