あまりにもか弱い存在、という残存記憶

あまりにもか弱い存在、という残存記憶

学校って本当に必要なの?」で蓑田さんがおっしゃったことの中で、確かに!と思ったことは一杯あったんだけど、

赤ちゃんがあまりにも頼りない存在だったので、いつまで経っても親はその記憶が抜けない、

というのが、僕にはすごくツボ&合点がいく話で。

初めて我が子を持った時、思ったこと

多分女性の場合、自分の子どもを持つ前に、知人の赤ちゃんをだっこする機会って結構あったと思う。

でも、僕は正真正銘、忍介が生まれるまで人間の赤ちゃんを抱いたことが一度もなかった。

忍介が生まれて、本当に生まれて初めて、人間の赤ちゃんという物体を抱っこした。

 

控え室で待っていて、泣き声が聞こえて。

助産師さんが連れてきてくれて、震える手で抱っこした。

その時の気持ちは今でも覚えている。

マジで胸がキュンとした。

 

首だって据わってないし、目だって見えてるのかよくわからないし、ずっとギャン泣きしてるし、ちょっと血もついてるし。

何かを少しでも間違えたら、すぐにもバラバラになってしまいそうだった。

まさに「こわれもの」そのものだ。

 

大切に24時間、気をつけて目をかけてあげないといけない、可憐な存在。

実際、自然界でこんなに無防備で弱い赤ちゃんって、人間だけなんじゃないか?

自分で食事をすることはもちろん、排泄を処理することも、寝返りも、おっぱいの後のげっぷさえも、何ひとつ自分でできやしない。

書き出してみると、本当にダメダメじゃんね、忍介。

いや、忍介に限らず、僕も含めて人間は全員か。笑

残存記憶が、親を誤らせている

だからこそ。

親がかまってしまう癖、が残ってしまうのかも知れない。

歩き始めても、もう見ていられないくらいヨチヨチだし、頭が重いからすぐ転ぶし。転ぶとギャン泣きするし。

転ばないように、怪我しないように、お腹がすいて泣きださないように、カプチーノみたいな泡立ちウンチのせいでおむつが不快になる前に、

親が助けてしまう。

でも、そのあまりにもか弱い存在という残存記憶が、親を誤らせている。

子どもが自分でできるようになったり、自分で考えるようになった後も、頭が切り替わっていない。

いつも先回りして、心配という名のおせっかいを続けてしまう。

と、自分の場合を思い出して、思った。

***

子どもを自分とは別の人格として認め、尊重すること。

か弱い庇護の対象、としてではなく。

導くべき迷える子羊、としてではなく。

それは、親という種族に課されたひとつの試練なのかも知れない。

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1972年生まれ。 息子は小学三年生の時に不登校になり、小・中学校には通うことなく卒業しました(現在19歳・大学生)。 不登校や親子関係の悩みについて、セミナーや講座をお届けする「びーんずネット」の事務局を担当しています。趣味はマラソン。不登校をテーマにしたインタビュー事例集『雲の向こうはいつも青空』や各種書籍の出版をしています。