サッカー日本代表への愛は、
以前に書いた通りなんだけど
物議を醸したロシアW杯ポーランド戦の、
ラスト10分のボール回し。
あなたはどう感じましたか?
眼前の退屈と脳内のスリル
僕に関して言えば、あれだけはっきりと、
あからさまにボールを回し出したことに
驚きはしたけど、
冷静に考えて「これしかない」と
西野監督の賭けを支持した。
このまま0−1でゲームが終わり、
そして同様にセネガルのゲームも終われば
日本が決勝Tに勝ち上がる。
日本とセネガルは勝ち点、得失点差、
得点のすべてが同じだが、
警告枚数の差があるからだ。
でもセネガルがもし残り時間で
1点取ってしまえば全てが終わる。
自ら時間を空費したあげく、
得るところはなにもない。
誰かが試合後に
「眼前の退屈と脳内のスリル」
と書いていた記憶がある。
それは僕もまったく同じだった。
でも一緒に見ていた忍介は違った。
「なんだよ、これ?」
「こんな恥ずかしいことして
勝ち上がって、意味あんの?」
「馬鹿馬鹿しい」
それは多くの人が持った感想だろう。
あれでいいんだ、と強弁する気はない。
でも僕は、決勝Tで戦うこのチームが
どうしても見たかった。
そして残念ながら、あのとき、
あの試合展開、あのメンバー、
あの残り時間で
ポーランドから1点もぎ取れる予感は、
西野監督にも僕にもなかった。
だから賭けに出た。そして賭けに勝った。
眼前の退屈と卑怯の思い
一方で—。
話は古くなるけれど、1992年の甲子園。
明徳義塾対星稜戦。
明徳が、星稜の4番打者・松井秀喜を
5打席連続して敬遠した試合。
この試合に関しては、
僕はポーランド戦とは別の感想を持った。
松井は一度もバットを
振らせてもらえなかった。
ランナーがいないときにも敬遠をされた。
そこまでして勝ちたいか?
だいいち、卑怯じゃないか?
でも野球が好きなことでは
僕以上だったかもしれない僕の母は、
こう言い切っていた。
明徳は何も悪くない。
敬遠はルール違反じゃない。
勝負は勝つためにやるのであって、
卑怯でもなんでもない、と。
そういうものだろうか?と当時も思ったし、
今も正直、よくわからない。
何が言いたいかというと…
例に挙げたふたつの事例。
僕の基準は一貫していない。
片やボール回しを是とし、
片や敬遠を非としている。
普通に言うなら、これってダメじゃんね?
でも、バカボンのパパじゃないけど
「これでいいのだ」と
お墨付きをもらえた気がするのは、
親業(Parent Effectiveness Training)で
「行動の四角形」を知ったからだ。
相手の行動を自分が受容できるかどうか。
その基準は変わるし、
変わっていいという考え方だ。
親だから、子どもと接するときの基準は
一貫していなくてはいけない。
多くの親はそう思う。
でもそう思うからこそ、
自分の本当の気持ちを
偽ってしまうことがある。
相手の行動を受容できるかどうかは、
自分の状況にも、相手の状況にも、
環境によっても変わる。
例えば?
「ねえ、早くご飯作ってよ」
という子どもの言葉も、
自分の状況が良ければ
「はいはい、すぐに作りますよ」
と言えるだろう。
でも疲れてどうにも
元気が出ないときにはどうだろうか?
子どもが宿題もせず
ゲームばかりしているときに言われたら?
子どもが家に帰るなり
玄関から大声でそう言ってきたら?
基準はかわるものだし、変わっていい。
一貫していなくても、別にいい。
なぜなら人間、そういうものなのだ。
ポーランド戦のボール回しと
松井の5打席連続敬遠。
他の人からしたら
どうでもいいことかも知れない。
でも実は、この2つの事例に対して
一貫していない自分の基準に
秘かに釈然としていないものを感じていた。
だから、受容できるかどうかは、
自分の状況にも、相手の状況にも、
環境によっても基準がかわる。
そう知ってある意味、安心した。
あなたはどうですか?
常に一貫した態度を
取ろうとしていませんか?
親業についてはこちら
https://ftk-gift.com/category/parparent-effectiveness-training/
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