市井の人の不登校の話を取材し、
編集して本として売っている。
インタビュー事例集を作るにあたって
ひとつ、気をつけていることがある。
それは、できるだけ自分たちの主張や
メッセージを「込めない」ということだ。
なので、大変興味深く読んだのだけど、
やっぱりかなりガツン!ときた。
『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』
という本だ。
「不登校を選んだ」
そう言った瞬間に
こぼれ落ちてしまう本当の気持ち。
当事者ならではこそのリアルな、
(そして誤解を恐れず言えば)
「めんどくさいアレコレ」
がすごく率直に書かれた本だった。
とりわけ常野雄次郎さんの第4章
「ハッピーエンドは、もういい!」
には考えさせられた。
起:「学校に行くのがつらいよ!」
承:「学校に行けなくなったらもっとつらくなっちゃったよ!」
転:「学校に行かなくてもOKと気づいたら楽になった!毎日楽しくてしょうがない!」
結:「現在は社会人として立派にやっています」
この「明るい登校拒否の物語」
が無意識に抑圧してしまうもの、
という視点は――もちろん、
不登校を扱う本の作り手の一人として
常に心の片隅には持ち続けているつもりだ。
だけど、こうして非常に論理的
かつ的確に厳しく指摘されることで、
改めて、背筋が伸びる思いがした。
この本で折ったページは数多かれど。
一番「折る指」に力が込もったのは第5章、
貴戸理恵さんのこのページだったかな……。
たぶん、何かがおかしいのだ。
「不登校のわたしはすばらしい」
ってことを言うために、どうしてわざわざ、
「不登校でもぜんぜん不利になりません。わたしを見てください。社会性も主体性もあって明るくてしっかりしてるでしょう。不登校でもいいんです。不登校がいいんです。わたしは不登校を選んだのです」
っていうことにしなきならないんだろう?
(中略)
たぶん必要なのは、支離滅裂なものに根気よく傾けられる耳だ。ほつりほつりと語られる子どもの言葉を、「病理・逸脱」とか「選択しうるもの」とかいう今ある物語に回収してしまわない、付き合いのよさだ。わからないものをわかるように変えるのではなくて、わからないものを受け入れるために自分が変わる用意だ。
今ある物語に回収してしまわない、
付き合いのよさ。
わからないものを受け入れるために
自分が変わる用意。
なんだかね、ココだと思う。万事。本当に。
そしてそれはとんでもなく面倒で、
かつ難しいことでもある。
でもやっぱりそこから
逃げちゃいけないんだとも思う。
と、完全に独り言になっておりますが。笑
不登校インタビュー事例集、
第6号の発行を目指して目下、取材から
書き起こし作業に着手しつつあります。
もちろん、
取材した内容は取材した内容だ。
僕らが勝手に変えることはない。
ただ、どこにどうスポットを当てるか?
どのディテールを残し、
どのエピソードは省略するか?
そういう裁量は、編集する僕らにある。
書物としての読みやすさ、
にはしっかり配慮しつつも、、、
わかりやすい物語に回収してしまわない、
付き合いの良さ――。
そこにも最大限、留意して
作業に当たりたいと思っている。
なあんて、偉そうに!笑
今日も良い1日を。
記事を読んで何か感じることがあれば、ぜひコメント欄にご意見やご感想をお寄せください。
更新の励みになります。バナーのクリックお願いします!
コメントを残す