昨日に引き続き不登校新聞1月15日号。
「『不登校』ではなく
『不来校』を問題にすべき説」
不登校経験者・喜久井ヤシンさんのコラムが
”キリッ”と音がするくらい良かった。
「不登校」と言うと――。
「登校しない子ども」
の側に問題があるみたいに響く。
そうですよね?
でも「不来校」と発想を換えてみれば、
「大勢の子どもたちが来校しないこと」
に問題がある、というように変わる。
責任の所在は個人の側にあるのではなく、
学校や教育の制度の側にあるのだ、と。
「不登校」を問題視するかぎり、不登校の子が18万人いても、一人ひとりの子の責任、一人ひとりの親の子育ての責任になりかねない。しかし「不来校」は社会全体で取り組むべき課題であり、ひとりの子、ひとりの親が責めを負うものであるはずがない。責任を負うべきなのは「不来校」の問題を生み出す日本社会のはずだ。
前にも書いたことだけど、、、
不登校の子が悪い、問題だ、と騒ぎ立てて
学校に無理に来させようとするのではなく。
学校の方こそ、子どもたちに
「選ばれる努力」を怠らないように
本来するべきだよなあ、と。
不登校18万人。
それは学校に適応できない問題児が
どんどん増えているという話じゃない。
今の学校に対して子どもたちが行動で
突きつけているNOであり、ダメ出しなのだ。
大袈裟な話ではなく、真摯に
そう受け止めるべきじゃないだろうか?
ちょっとした言葉の言い換えかも知れない。
でも「不来校」というのは、問題の焦点が
何かを明らかにする発想でもあると思った。
そういう意味で「登校拒否」って意外に
「不登校」より本質を突いていたかも……。
今日も良い1日を。
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