連想というものは不思議なものだ。
いったんそれが頭に浮かんでしまうと、
なかなか消すことができない。
そんなことはありませんか?
太宰治の「走れメロス」という小説。
小学生六年生のときだったと思う。
河合塾の模試で知った。
疲労困憊、走ることがままならなくなって、
いっそ親友を裏切って逃げてしまおうか?
その部分が問題文になっていたんだけど、
そのどす黒い心情がやたらリアルで、
模試が終わった後、駅前の本屋で買って
すぐに読んだ。
この小説。
色々言いたいことがある人は多いと思う。
僕はこのキリッと簡潔で力強い文体と、
くだんの人間くさい胸の内の描写が好きで、
以来、折に触れて今日まで、
なんやかんやで10回は読んでいると思う。
だから、その創作の発端が
こんなことだったんだ!と知って驚いた。
懇意にしていた熱海の村上旅館に太宰が入り浸って、いつまでも戻らないので、妻が「きっと良くない生活をしているのでは……」と心配し、太宰の友人である檀一雄に「様子を見て来て欲しい」と依頼した。
往復の交通費と宿代等を持たされ、熱海を訪れた檀を、太宰は大歓迎する。檀を引き止めて連日飲み歩き、とうとう預かってきた金を全て使い切ってしまった。飲み代や宿代も溜まってきたところで太宰は、檀に宿の人質(宿賃のかたに身代わりになって宿にとどまる事)となって待っていてくれと説得し、東京にいる井伏鱒二のところに借金をしに行ってしまう。
数日待ってもいっこうに音沙汰もない太宰にしびれを切らした檀が、宿屋と飲み屋に支払いを待ってもらい、井伏のもとに駆けつけると、二人はのん気に将棋を指していた。太宰は今まで散々面倒をかけてきた井伏に、借金の申し出のタイミングがつかめずにいたのであるが、激怒しかけた檀に太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 と言ったという。
後日、発表された『走れメロス』を読んだ檀は「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と『小説 太宰治』に書き残している。
飲み代と宿代で友人を人質にして、
しかも約束を果たさない。
しまいには友人が催促にくる。
その心情をあの小説に仕立てあげる。
コレ、まさかの変換だと思いませんか?
檀一雄がセリヌンティウスなら、
とっくに処刑されてるじゃないかよーって。
待つ身が辛いかね。
待たせる身が辛いかね。
この流れで言うのはちょっと
適切じゃないかもしれない、とは思う。
だけど、連想というものは不思議なもので。
いったん頭に浮かぶと消すことができない。
不登校をいつまで見守ればいいのか?
そんなことを思う親は多いと思う。
5年前、僕も本当にそうだった。
太宰のエピソードを面白がった後に、
でもなんだか靴に入った小石のように
この言葉が気になってしまった。
待つ身が辛いかね。
待たせる身が辛いかね。
確かに待たせる身の辛さもあるよね、と。
もちろん、将棋さしてる太宰は
身勝手で酷いと思うけど。笑
人はどうしても
自分のことを中心にものを考えがちだ。
でもちょっとだけ。ときどきでいい。
待たせる側の身の辛さも、
考えてみてもいいかも。
そんなこんな、思った次第。
P.S.
走れメロスに関しては、コレとっても楽しいです。よろしければ。
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