不登校という言葉に思う

 

 

 

毎日毎日不登校不登校言ってるから、
不登校という言葉が持つニュアンスは
普段はあんまり気にしてないのだけれど。

ときどきこういう話になる。

「不登校っていう言葉が良くないよね」と。

うん、確かに良くないと思う。

僕はむしろ「登校拒否」の方が端的に
本質を表していて良かったと思っている。

学校が子どもたちに選ばれてない。
子どもたちから拒否られている。

その事実をなんか、
不登校っていう言葉がやんわり
フワッと覆い隠してしまっている。

でも「不登校に代わる新しい言い方を」
という議論にも正直あまり情熱が湧かない。

情熱は湧かないなあ。

なぜだろう?

いや、もちろん新しい言い方をしてもいい。

でも仮に新しい言葉をあてがったとして。

不登校に傷つく子どもと親が減らない限り、
やっぱり意味がないと思うからだ。

目指すべき状態。

それは、

「学校へ行こうが行くまいがどうでもいい」

と誰もが共通して認識している状況だ。

そうですよね?

「不登校」という言葉のニュアンスに
ネガティブさがまったくなくなること。

誰も学校へ行く・行かないを問題にしない。
学校へ行く・行かないが問題にならない。

そして「学校へ行かないこと」による
不利益がまったくないこと。

行ったって行かなくたって
どっちでもいい。自由に選べる。

それがまったく問題にならない。

そうやって仕組みも社会全体の意識も
根こそぎ全部グルっと代わること。

それこそが真に目指すべきゴールであって。

「言葉自体は正直どうでも良くない?」

というのが僕の感想だ。

もちろん異論もあるだろう。

不登校に代わる新しい言葉が
素敵であれば、特に反対はしない。

でも根っこは「言葉」じゃないと思ってる。
僕らみんなの「意識」が問題だと思ってる。

最後に。

今はこんなこと書いちゃってますが、、、

以前はもちろん、真逆の生き方をしてた。

残念ながら自分には特別な才能がない。
少なくとも「食っていける」ほどの才能は。

ずっと40年以上、そう思って生きてきた。

だから会社員じゃなければ生きていけない。

頑なに40年以上、思い込んで生きてきた。

「会社に勤めなきゃ食っていけない」

それはもう、殆ど宗教みたいなものだった。

でも46歳で会社員を辞めて無職になった。

「大丈夫、学校へ行かなくても
ちゃんと生きていけるよ」

大雑把に言えばそんなメッセージを掲げて
夫婦で活動することになった。

そしてそれ自体を生業にするようになった。

そう、これが今の僕の仕事なのだ。

「大丈夫、会社で働かなくても
ちゃんと生きていけるよ」

面と向かって言うことは決してないだろう。

でもそんな自分の背中を見せて行きたい。

「え? 誰に?」

あの、その、えーっと、

む、息子に向かって……。

こっそり胸の奥でそう思いながら
父は日々、頑張っております。

いつかお前の喜ぶような
偉い兄貴になりたくて
奮闘努力の甲斐もなく
今日も涙の
今日も涙の陽が落ちる
陽が落ちる♪

そう、気分はまさに車寅次郎で!

(涙の陽が落ちる……)

今日も良い1日を。

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ABOUTこの記事をかいた人

1972年生まれ。 息子は小学三年生の時に不登校になり、小・中学校には通うことなく卒業しました(現在20歳・大学生)。 不登校や親子関係の悩みについて、セミナーや講座をお届けする「びーんずネット」の事務局を担当しています。趣味はマラソン。不登校をテーマにしたインタビュー事例集『雲の向こうはいつも青空』や各種書籍の出版をしています。