以前書いた「不登校100万人化計画」。
昨日もうちの奥さんとあれこれ話していて、
もう一度書きたくなったので書く。
15歳の忍介は1日も中学校に行っていない。
なので、be動詞も、平方根も、
百人一首も、何も知らない。
ただ19世紀から20世紀にかけての
銃火器にはやたら詳しい――それはもう、
唖然とするくらいに。
だから教科書もいいけど、
好奇心って本当に大事だなと思う。
核心だと思うこと
繰り返しになるのだけど、
僕が以前の記事で紹介した
山田さんの指摘が面白いなと思ったのは、
10人に1人くらいは他人と違う生き方を
する人がいてもいい、には同意するのに、
不登校100万人には眉をひそめる人が多い、
という部分だった。
結構ここは核心なんじゃないかな、と。
この「社会の視線」がもっと
おおらかなものにならないと、
苦しむ子も親も減らないだろうなあ、と。
僕個人についてはもう、
学校というものへのこだわりはない。
行きたくなかったら行かなければいい、
それで全然いいと思っている。
でも実は忍介はそうじゃないらしく。
僕ら夫婦が今の活動をするのはいい。
だけど「学校なんて全然行かなくてもいい、
みたいな発信はしないでほしい」と言う。
「僕はそうは思わないから」と。
この発言は結構、僕ら夫婦には大きくて。
行きたくなかったら行かなければいい。
本人が心からそう思うのであれば、
もちろんそれはそれで全然いい。
けれども本人がそう思っていない場合も
やっぱりあるのだ――例えば忍介のように。
子どもは敏感に感じ取っている
一切学校には行こうとはしない忍介が、
なぜそう思うのか?
これはあくまで僕ら夫婦の推測なのだけど、
多分、前述の山田さんの指摘なんだと思う。
つまり、10人に1人は他人と違う生き方を
する人がいてもいい、にはみんな同意する。
でも不登校100万人計画には眉をひそめる。
そのことを彼が敏感に感じ取っているから、
なんじゃないだろうか?
今のままの自分を、社会というものは
色眼鏡なしには評価しない、ということを。
他人と違う生き方をする人がいてもいい。
文科省も教育委員会も校長先生も保護者も、
たぶんこれにノーという人は少ないだろう。
でも不登校が100万人になったら――特に
自分のところの子が不登校になったら。
いやいや、ちょっと待った!
となる人はまだまだ多いだろう。
まさにかつての自分
この部分が本当の意味で変わらないと、
たとえ不登校という言葉が
他の何かに置き換わったとしても、
学校へ行けないことで自分を責める子や、
苦しむ親は減らないと思う。
本当に変わらなければいけないもの。
それは一見理解があるふうで、
やっぱり自分の子は困る、という
その意識こそ、なんじゃないだろうか?
そしてそれはまさに、かつての僕だ。
まさか自分の子に限って、と思って
必死に学校に戻そうとした僕だ。
僕は自分では理解があるつもりだった。
でもいざ我が子がそうなると、
身も蓋もなくなった。
僕が山田さんの指摘を読んで
ドキッとしたのはこの点かもしれない。
ということで、毎度ながら、笑
バケツ3杯分くらいの自戒を込めて。
(ざばーん!ざばーん!ざばーん!)
そして、常に僕を戒めてくれる、
我が息子への感謝を込めて。
ホント、ありがたい。
彼はいつも気づきと学びの源泉だ。
今日も良い1日を。
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