不登校はギフトだっていうのは、もしかしたらリアルタイムで悩んでいる人にはキツイ言い方かも知れない。
でも本当に僕は、息子の不登校をきっかけに変わることができた。
以前は不登校やひきこもりに偏見を持っていた。
今は思う。不登校は問題行動じゃないし、ひきこもりは怠けてのことじゃない。
むしろ、すごいことだと思う。
だって、どれだけ親がネガティブな反応を起こすかが分かっていて、それでも自分の気持ちを態度と行動できっぱり示している訳で、非常に勇気ある意思表示だ。
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子どものことを思えばこそ。
そう親は思おうとする。
将来を思えばこそ、辛くてもがんばって学校に行って欲しい。
学校に行かないと勉強が遅れて、苦労する。
勉強をしないと社会に出た時に苦労する。
本当に?
勉強をしないと本当に苦労するのだろうか?
その心配は、もしかして本当は勉強ではない部分にあるんじゃないだろうか?
突き詰めて言うなら—
親としての評価、を気にしてないだろうか?
子どもの不登校という事態に対して、親という役割をしっかり果たせていない、
と人から思われることを。
もしそういう部分で子どもを無理に行かそうとするのならば、子どもの本当の気持ちや願いをまったく聞いていないことに他ならない訳で、それって完全に親の側の都合だ。
子どもの将来が不安?
確かに。不安だ。
ただその不安は学校に行き続けることで、本当に払拭されるものだろうか?
もしかして単に”多数派じゃない道を行くのを見るのが心細い”、というのじゃないか?
大勢が歩く街道のような道と、山奥のケモノ道のように細い道。
もしこの道を歩く人が少ないという理由で不安になっているのなら、本当にそれがどういうものなのかをしっかり考えればいい訳で、
人がどうか、周りや社会がどうか、じゃなく、
自分がどう思うか、子どもがどう思うか、だ。
そう思ってデモクラティックスールという選択をした忍介を今、見守っている。
”徹夜ゲーム”を苦々しく思いながら。笑
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正解だとはまったく思ってないし、もちろん今だってこれからだって不安だ。
でも同時に、彼がどんな大人になって何をするのかを見るのが楽しみで、ワクワクしてもいる。
僕らが子どもの時には、公教育以外の選択肢は無かった。
だから公教育以外で育った人自体が周りにいないし、公教育以外で育った人がどうなるのかはわからない。
これってある意味、壮大な実験と言えなくもないだろうか?
無責任じゃないかって?
子どもと親は完全に別の人格であって、子どもには子どもの考えもあるし、人生がある。
親としてサポートすべきことと、子ども自身の考えや決断を尊重するのは別だ。
良き道へ導いてやる、という上から目線が親の役目じゃない。
そばにいて見守り続ける、という水平の視線が必要で、
それが一番大事なんだと思う。
***
最後に。
うちの奧さんに教えてもらって、良いと思ったもの。
ご存知ない方もいるかも知れないので紹介。
私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
(ゲシュタルトの祈り – Wikipedia )
親は親で、子どもは子どもです!
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