凧揚げしたい子ども。
自分で組み立てて飛ばしたい。
でも自分で組み立てて飛ばすには
まだ子どもは幼い。
だから、お父さんが組み立ててあげる。
組み上がった凧。
子どもはすぐに飛ばしたい。
でも、お父さんは慎重だ。
ある程度揚がるまでは、
と代わりにやってあげる。
ただ、風向きがよく変わる日で、
なかなかうまく揚がらない。
ぼくにやらせてー!
そう叫ぶ子どもを尻目に、
お父さんが凧を揚げるために
ひたすら頑張り続ける。
『子どもが幸せになることば』に出てくる、
とても印象的なエピソードだ。
コレ、僕には痛いくらい
お父さんの気持ちがわかる。
忍介が小さい頃の僕は、こういう親だった。
うまく行くようにしてあげたいのだ。
高く揚がった状態で
子どもに糸を渡してあげたいのだ。
ただその一心。
でも、傍目にどうだろうか?
それは本当に子どもの気持ちに
添ったことなんだろうか?
自分でやってうまくできずに、破ってしまったり、シールを貼り直したり。持って走り回って、すぐに落ちたり枝にひっかかったり。それを取ろうと木に登ったり棒でつついてみたり。糸がからまって、ずーっとほどいたり。
そんな体験の全部が「凧揚げ」なんだと思います。
親から見たら違うかもしれませんが、子どもにとってはいろいろな試行錯誤も含めた全部が「凧揚げ」という遊びの体験だと思います。「ちゃんと揚がったかどうか」だけが大事であるように捉えてしまうと、もったいないですよ。
そう!
ちゃんと揚がらなくてもいいのだ。
うまく行かないことも含めて、
その体験の全部が凧揚げなのだ。
こどもの日の今日。
助けているつもりでその実、
子どもの気持ちと離れたことに
なってしまっていやしないか?
ちょっと立ち止まって考えてみませんか?
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いつもありがとうございます!
子どもの視点から見たらこうかもしれませんよ。あなたもみんな子どもだったでしょ、というつもりの記事なんですが、親としてこうあらねば、と一生懸命な人にはなかなか届きません。
講演でこの話をすると、
・その父親も子どものために一生懸命だと思います(それはそうでしょう。朝から一緒に公園にきて、凧も買ってあげて…でも、親が一生懸命でないとか、悪い、などとは書いてないのです)。
・子どもの凧が木に引っかかっても気がつかないのは親としてどうなんですか?
などのコメントが必ず出ます。
自分が子どもだったらどうしてもらいたいでしょうかね。
この話をきいて、すごく怒る親がいるのです。そういう人のいくらかは、子どもであった自分のつらかった記憶(楽しかった記憶も)よりも、親をかばう気持ちが優先されていると感じます。(靴を揃える話、という記事にも書いたポイントです)
ちょっと飛躍しますが、体罰を肯定する人の多くは、体罰そのものよりも、体罰をした自分の親を守ろうとしている、という指摘があります。
子どもは自分の親が大好きだし、親の名誉を守ろうとしますね。だからこそ、親は…親はたいへんですよね、そこが、そここそが、楽しいとも言えるけれど。
田中先生、コメントありがとうございます!
そうなんですか。この話ですごく怒る親がいるのですね。
でも本当に自分が子どもの立場だったらどうだろう?という視点が抜けると、ヘンなことになると思います。自戒を込めて、ですが。
七夕の短冊に願い事は何かを聞かれた母親と、この凧揚げの父親は、今回の新刊の中で特に印象的なエピソードでした。
いつも先生の本からは気づきのタネをいただいています。ありがとうございます!