不登校から立ち直った
「きっかけ」ってなんでしたか?
――ということを知りたがる親は多い。
少し先を行く人のそれを知ることで、
わが子の少し先を「予測」したいのだ。
でも、厳しいことを言うようだけど、
やっぱりね、どうしても思っちゃう。
「そこに本当の答えはないよ」と。
例えばフリースクールに通うようになった。
そのことがきっかけで
物事が好転し始める人もいる。
でもそうじゃない人ももちろんいる。
例えば恩師と呼べる人との出会いがあった。
そのことがきっかけで
物事が好転し始める人もいる。
でもそうじゃない人ももちろんいる。
当たり前の話だけど、「人それぞれ」だ。
誰かにとっての「きっかけ」は、あくまでも
「誰かにとってのきっかけ」でしかない。
それを知ることは無意味ではないし、
大いに参考にはなるかも知れない。
けれど、それでわが子の少し先が
見通せるようになるかと言うと、
それはまたちょっと違う。残念ながら。
じゃあどうすればいいのか?
本当に逆説的だと思うのだけど――。
「きっかけ」なんて
知ろうとしないことなんじゃないかな。
要はポジティブに手放す。
今か今かと待つのをやめる。
いい意味で開き直る。
別にいいじゃないですか。
このままずっと学校に行かなくても。
このままずっと家にこもっていても。
たとえ今は部屋から一歩も出なくとも、
この子が愛しい自分の子であることに
1ミリも変わりはない。
そうですよね?
それともアレですか、
部屋から出ないと、
ゲームやめないと、
大学行って就職しないと、
愛しいわが子認定はできない。
そういう話ですか?
違いますよね?
で・あ・る・な・ら・ば。
美味しいご飯とあったかい寝床を提供する。
愛するわが子に親にできることは、
せいぜいそんなことぐらいで。
その「せいぜい」を大真面目でなく
鼻歌まじりにやればいい。
そして親であるあなたも
あなたの人生を生きればいい。
人はみんな死ぬ。
あなたも、あなたの子も死ぬんです。
縁起でもない話だけど、
これは動かし難い真実だ。
学校へ行ったとしても、
行かなかったとしても。
働いたとしても、
ずっとひきこもったとりしても。
人はみんな死ぬ。
そう、必ず死ぬんです。
そしてあの世には
何も持っていくことはできない。
いや、あえて言うなら、
ひとつだけあるかな?
この地上の時間での楽しい思い出だ。
最期の瞬間までに、どれだけたくさん
楽しい思い出を積み重ねてこられたか?
結局のところ、人生はそこだと思う。
ならば、自分にとってもわが子にとっても
少しでも楽しい思い出をつくるために
日々を過ごしたほうがずっと建設的だよね。
そう思いませんか?
いちばん大事なのは楽しい思い出。
進学も就職も、楽しい思い出に比べたら
ひとえに風の前のチリに同じ(平家物語)
ってなんだろう、今日は柄にもなく
シリアスになっちゃった。笑
思うままに書いて、
でもあえて推敲せずに終わる。
自分に言い聞かせて書いてるかな?
良い1日を〜。
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