もう15年も前のことだけど。
2月の晴れた空の高い日の午後だった。
息子が生まれた。
実は僕はそのときまで
人間の赤ちゃんを抱っこしたことが
一度もなかった。
自分の息子を抱っこするのが人生初だった。
胸の奥がキュッとなったのを覚えている。
できることが増えるにつれて
そして子どもは成長する。
ハイハイから立って歩くようになる。
話すようになる。
一人で食べられるようになる。
幼稚園でお遊戯できるようになる。
小学校に通うようになる。
最初はただただ、生きて
そこにいてくれるだけで良かった。
はずなのに、、、
できることが増えるにつれて、
リンボーダンスみたいに
期待のハードルが高くなる。
他の子はもう*+¥@してるのに、
それにひきかえうちの子は。
つい、そう思ってしまう。
そんなこんなを思い出す記事だった。
とても良かった。
「ある自己」と「する自己」
正直、内容はちょっと難しい。
サーっと流し読みして
スラスラ頭に入る内容ではない。
生まれたばかりの赤ん坊を「ある自己」、
いろんなことができることを「する自己」
と考えてみればわかりやすいかなと思う。
ひきこもりとは――。
学校や会社の人間関係などによって、ひどく傷ついてしまったらどうなるか。
多少のダメージなら、「する自己」をしばらく休ませるだけでいいかもしれない。
しかしただ「居る」ことや、生きていく力も削られてしまったなら、「ある自己」まで傷ついている。そんなときには、「する自己」を撤退させ、「ある自己」を治癒する時間が必要になる。
その表れの一つが、引きこもるという行為にあたる。「ひきこもり」は、他者から見て社会的な行動ができなくなること(「する自己」の欠損した状態)ではない。
本人にとって、人生と向き合う必然的な期間(「ある自己」の治癒をめぐるプロセス)だ。
本人の「ある自己」のための経験であって、周囲が「する自己」の欠如を理由に否定してはならない。
「ある自己」の治癒プロセス
少し言い換えてみるなら――。
テストで良い点を取る。
部活に打ち込んでいる。
こういうのは「する自己」だ。
通学や就労をせず自室にこもる。
そういう「する自己」が
欠損している状態を見ると、
途端に私たちは騒ぎ出す。
でもそれは「ある自己」の
治癒プロセスなのだ。
本人にとって必要な期間であって、
「する自己」の欠如を理由に
周囲が否定してはならない。
ひきこもりは「状態」でなく
「変化のある動的プロセス」。
往路・滞在期・帰路それぞれの
あり方と向き合い方がある――。
こういう視点も僕にはとても斬新だった。
「する自己」と「ある自己」。
ご興味ある方は、ぜひ読んでみてほしい。
今日も良い1日を。
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