前にも書いたことがあるけれど。
僕が学校へ行って一番良かったと思うこと。
それは「なにはなくとも本を読め」と
口酸っぱく言い続けてくれた、国語の
竹辺先生のような人と出会えたことだった。
竹辺先生の国語の授業は
まったく教科書を使わない。
かわりに授業では毎回、先生がつくった
プリントで古今東西の名作小説を紹介する。
テストはシンプルに百人一首の暗唱と、
中勘助の『銀の匙』の朗読だ。
それで点がつく。
今考えるとけっこうハチャメチャだ。
でも中学一年生にはとびきり新鮮だった。
おかげで多感な10代の季節に、
手当たり次第に文庫本を乱読した。
それは今の自分の
土台のようになったと思っている。
だから以前はちょっと悩んでもいた。
ある程度、どこかのタイミングで
「本は読んだほうがいい」
と息子に勧めたほうがいいのかどうか、を。
ただまあ、不登校から始まり、
デモクラティックスクールと出会い、
そして辞め、ひきこもりを経て
通信制高校へ入り、アルバイトの後、
今や24時間自由型の生活を思い切り
満喫してるのを見るにつけ……。
このまま「完全オーガニック」で
「フリースタイル」のまま
にんげん、育つとどうなるのか?
そっちを見てみたい「好奇心」のほうが
実は勝ってもいて。笑
「本を読め」とは一切言ってこなかった。
もちろん「勉強しろ」もだ。
ところが、このブログをお読みの方なら
すでにお気づきのように。
ここのところ、ゲーマーの映画狂いは
怒涛の哲学文学読み漁り少年に変貌した。
ヘッセやニーチェは読み終わって、
今はなんとツルゲーネフを読んでいる。
先日は種田山頭火まで読んだらしく、
「お父さんこれ読んだ?」と見せられた。
いや、山頭火は読んでない。
しかしまさにこれ、
中学生のときの僕と同じだ。
古今の名作、全部読まなきゃ死ねない。
――そう思って狂ったように読み漁った。
そして今、オーガニック24時間自由型も
17歳にして文学少年に突然変異した。
何が言いたいか?
その人のタイミングがくれば、
それは始まるもんだなあ、と。
僕は竹辺先生の「おかげ」で自分が
本を読むようになったと思っていた。
だから先生に感謝していた。
でも今は思う。
たまたま「僕のタイミング」は竹辺先生と
出会ったそのタイミングなだけだった、と。
考えてみれば単純な話だ。
竹辺先生に教えられたクラスメート全員が
僕のように文学少年になったわけじゃない。
そういえばみんな、本なんて嫌いで
読んでない奴の方が断然多かった。
結論。
完全オーガニックでもいい。
読む時は読む。
読まない時は読まない。
個人の資質としてもそうだ。
読むかもしれない。
読まないかもしれない。
それは本来、God only knowsの話だ。
そもそも親や先生が無理やり
種を撒いたり矯正する話じゃない。
God only knows what I’d be without you
これは、ビーチボーイズの名曲だ。
すぐ脱線する。笑
収拾つかないのでこの辺で。
今日も良い1日を。
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