「私たちはどう生きるか」
という言葉が今朝、
起きたときにパッと思い浮かんだ。
もちろん、元ネタは吉野源太郎とジブリの
「君たちはどう生きるか」だ。
「私たちはどう生きるか」
パッと浮かんだ言葉ではあるけれど。
これって不登校生の親へ突きつけられる
大きな「問い」でもあるなと思った。
子どもが不登校になる。
「いや、マズイっしょ!」と親は焦る。
なんのかんの言っても学歴大事よ。
将棋だの野球だの、
何か特別な才能があるならともかく。
凡人にとってはある種、
学歴は「お守り」みたいなものだから。
とにかく学校に行かないと、
人生の選択肢が極端に狭まってしまう。
親としてそれだけは避けたい。
なので不登校はなんとかしないといけない。
――というのが大方の親の反応だと思う。
僕もそうだった。
ちゃんとさせねばならない。
きちんとするべきだ。
そんな「ちゃんと・べき・ねば」が
大きく頭にこびりついていた。
「でも、本当に?」
不登校ライフも長くなってくると、
親もぐわんぐわん試される。
そして「ちゃんと・べき・ねば」
が少しずつ揺らいでくる。
こんなにも子どもは苦しんでいる。
行きたいのにどうしても行けない。
学校というものを身体が拒否している。
それなのに親として無理にでも学校に
行かせることは、正しいことなのか?
という問いと揺らぎだ。
この問いと揺らぎを繰り返すこと、
それはつまるところ
「私たちはどう生きるか」
にも大きくつながってくる。
確かにつまらないかもしれない。
でもやらなきゃいけないことだから。
我慢してでもやっとかなくちゃ。
と、諸々を諦めて生きるのか(生き方A)。
それって本当に必要?
自分は何に楽しさや幸せ感じるのか?
人生は我慢や諦めがデフォルトなの?
と、問いかけつつ生きるのか(生き方B)。
私たちはどう生きるか、つまり
生き方A、それともB?
それを子どもが間接的に
親にも投げかけている――。
そんなふうに捉え直せたら
不登校って素敵だと思いませんか?
今日も良い1日を。
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