テレビは好きじゃないので
意識して見ないようにしている。
でも痛ましい事件は
活字で読んでも胸が張り裂けそうになる。
子どもは親のモノじゃない
虐待死もそうだけど、
例えば親子心中なんていうのも
決してあってはならない話だ。
残された子どもが可哀想?
それは親が決める話じゃない。
子どもは親のモノじゃない。
虐待や心中で考えれば、曇りなくそう思える。
でも、胸に手を置いて
深く深く考えてみたときに、
”子どもは親のモノじゃない”
僕ら親は、
本当に心の底から
そう思えているだろうか?
僕らは本当に自分と子どもを
きちんと切り離して考えることが
できているだろうか?
親に厳しい目が向く社会
別の視点から。
思うのだけど、日本の社会はある意味
親という種族にとても厳しい社会だと思う。
例えば、電車の中で
小さな子どもの振る舞いが気になる時、
僕らは子どもでなく
その子どもの”親を責める視線”を
無意識に送ってはいないだろうか?
おいおい、
親はいったい何をやってるんだ?
どういうしつけをしてるんだ?と。
これはつまり、
親がちゃんと子どもをしつけていない、
子どもがダメなのは親が悪い、
という価値観を
僕らが根強く持っているからじゃないだろうか?
親は子どもを
しっかりしつける義務がある。
学校に行かせる義務がある。
それができない?
そんな親はダメな親だ。親失格だ。
しっかりせんかーい!
僕らは強固にそういう”縛り”を
自分にも他人にも課している。
そういう社会に暮らしている。
親の顔が見たい、と言うなかれ
他にも。
小さな子どもならいざ知らず、
いい年をした大人が不祥事を起こす。
それが芸能人の子どもだったりすると
親が出てきて謝罪する。
「世間」というものに向かって
「お騒がせして申し訳ない」と謝る。
自分がやってもいないことなのに謝る。
なぜか?
育てたのは親で、その責任があるからだ。
でも、よく考えてみたい。
この心理も結局のところ
”子どもは親のモノだ”
という考えに似たものじゃないだろうか?
延長線上にある発想じゃないだろうか?
「親の顔が見てみたい」という言葉。
これだってそうだ。
”育てた親に問題がある”
という意識がなければ、そもそも
こんな言葉は出てこないと思う。
別の人格だということが腑に落ちていない
親と子は別の人格。
そのことがしっかり腑に落ちていない。
僕ら親もそうだし、
社会全体としても、そう。
だから、
子どもが道を間違えやしないか
必要以上に親が心配する図が頻出する。
子どもに問題があると
必要以上に親の責任を問う図が頻出する。
世間というか
社会の方は置いておくとして、
少なくとも
子どもは無力で判断応力が低い、
過ちを犯しやすい保護・指導の対象ではなく、
子どもは自分で自分の人生を
力強く生きる力を十分に持っている。
そう信じる。
そして、
親と子は別の人格であることを忘れない。
子どもの問題を引き受けて一体化しない。
子どもを思うようにコントロールしようとしない。
親がそうなれたら、
もっともっと良くなる局面は増えると思う。
もちろん、ドラム缶一本分くらいの
たっぷりの自戒を込めて書いてます。
カリール・ジブラン「子どもについて」
最後に。
ご存知ない方もいらっしゃるかもしれないので、共有です。
カリール・ジブラン「預言者」から
「子どもについて」の一節。
読み比べてみたけど、この訳が一番好みだ。
あなたの子どもは、あなたの子どもではない
待ちこがれた生そのものの息子であり、娘である
あなたを経て来たが、あなたから来たのではない、
あなたと共にいるが、あなたに属してはいない
なぜなら、彼らには彼らの考えがあるから
あなたが彼らのようになる努力はしたとしても、
彼らをあなたのようにすることを求めてはならない
なぜなら、生は後戻りしないし、
きのうのままにとどまりもしないのだから
トマス・ゴードン著 近藤千恵訳『親業』大和書房
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