結局のところ、要するに――。
「青臭いんだよね」
カネコの純ちゃんってば!
僕が大好きなカート・ヴォネガットもそう。
今回の『ひゃくえむ。』の魚豊もそうだ。
「何を描いているか?」
彼らのテーマを乱暴にひと言で
ざっくり言うならこうなる。
「人はなぜ生きるのか?」
はい、完全に青臭い中二病ですね。笑
でも、だからこそ!!!
「永遠の中二病」である純ちゃんが
これだけ反応しちゃうんだよね。
今回の『ひゃくえむ。』でも
しつこいくらい繰り返し問いかけられる。
「君はなぜ走るのか?」
「君はなんのために走るのか?」
それは「君はなぜ生きるのか?」
とほぼ同じ意味だと思う。
そんなバカみたいな青臭くダサいことは、
分別ある大人は絶対には問わない。
そんな青臭いことは抜きに、
日々の雑事をスマートにこなす。
「人はなぜ生きて死ぬのか?」
「死ぬとは一体どういうことか?」
「そもそも人生とはなんだ?」
そんなことは「マトモな大人」は考えない。
スマートに・華麗に・スルーする。
そして涼しい顔でわかった風に死んでいく。
でも永遠の中2病である53歳の僕は
やっぱり今でも考えちゃう。
「人はなぜ生きるのか?」
どうせ最後は誰もが死んでしまうのに――。
「最後は・どうせ・誰もが・死ぬ」
思い返せば、小学4年生の春の朝。
あまりに単純な、それでいて厳然とした
その「残酷な真実」に気づいてしまって、
気を失うくらい怖くなった。
あまりの恐怖で毎晩、布団の中で泣いた。
「いつか・この自分は・絶対に・死ぬ」
自分という存在は永久になくなる。
ぜんぶ、すっからかんのゼロになる。
そこに例外はまったくない。
永遠の無に帰してしまう。
それが自分の身にも絶対に訪れるのだ。
もちろん、人が本当に死ぬまで二段階ある。
現実的に・肉体的に・死ぬこと。
もちろんこれが決定的な話だ。
でもそれだけではまだ完全には死なない。
あなたの存在を覚えていてくれる人がいる。
その人が一人でもこの地上にいる限り、
あなたはまだ完全には死なない。
まさに映画『リメンバー・ミー』の世界だ。
例えば僕がまだ10代前半だったとき。
僕には唯一の友達と呼べる存在だった
高川という少年がいた。
中2のときに一緒のクラスになって、
僕と高川は席が隣になった。
初めて会ったときからすでに高川の髪は
薬の副作用なんだろう、まったくなかった。
完全なる異形のスキンヘッド。
中2の男子としてはかなりのインパクトだ。
しかもごくごく稀にしか学校にも来ない。
でも高川は病室で勉強しまくっていて、
数学では学年トップに入るような奴だった。
嫌味な話じゃないですか?
こっちは毎日、教室で授業受けてるのに
授業も受けてない、病気で入院中の奴に
ぜんぜん成績が敵わないなんて。
普通なら僕とは合わないと思う。
でも、なぜだろう?
話してみると不思議なことに波長が、
具体的には特に音楽の趣味が合った。
彼とビートルズを語りあった。
高校の学園祭ではバンドをやろうと話した。
ただその夢は果たされなかった。
ある日突然、15歳で逝ってしまったから。
僕は高川の葬式で生まれて初めて
にんげんの「棺」というものを担いだ。
めちゃくちゃ重くて驚いた。
「こんなに重いんだ……」
ああ、こうして書くのさえも辛いな。
葬式も終わって、しばらく経って。
高川から借りていたカセットテープを
彼の母親に返しに行った、土曜日の午後。
「ありがとう、金子くん。ありがとう」
何度も涙でそう繰り返す彼女を
直視できなかった。
そそくさと逃げるように彼の家を後にした。
でも高川は完全には死んでいない。
あれから40年近く経ったけど、
こうして僕が彼のことを
まだ今もありありと覚えているから。
だから高川はまだ僕の中で生きてる。
――って完全に話が逸れた。
何が言いたかったんだっけか?
そう、『ひゃくえむ。』の話だ。
あのラストシーンがどうしてあれほどの
絶大なカタルシスを生み出すのか?
作者自身の言語化が見事なので、
またも「写経」してみる。
たとえば、人はいつか死ぬし、栄光を掴んでも永遠ではない。でも、その一瞬の栄光への努力を肯定できるか、且つ、肯定してもそこにしがみつかずにまた挑戦できるか……それがこの作品の最終的なテーマだと思います。
ただ、そういった領域に入るには、勝ち負けに囚われ続けなければいけない、真剣に勝負の海を泳ぎ続けていたからこそ、ふと訪れるエンジョイの純度が上がる。そういう逆説というか、矛盾のなかに、一種の真理があると思い、それも描きたかったです。相反する価値は分離しているわけではなく、むしろ表裏一体で支えあっている。その不可分さ、アンビバレントさがまさに生と死を象徴していると思いました。死があるからこそまた生が輝くことが出来るといった感じに。
最後は、過程と結果、勝ちと負け、自己と他者、そんな二項対立から脱したところに到達した結果、「好き」という純粋な気持ちが掬い出せた。恐らく、そんな気持ちは一瞬で冷めます。そして次の瞬間からはまたいつも通りの日常や生活、勝負が始まります。でもたとえ僅かでも「自分が好きだからやっている」という瞬間がある人生は幸福だと思うので、その一瞬にスポットを当てて描きたかったです。
『ひゃくえむ。新装版』限定掲載、
「魚豊先生ロングインタビュー」の一節だ。
たとえ僅かでも
「自分が好きだからやっている」という瞬間がある人生は幸福だ
結局、ここなんだよね。
人が生きて死ぬのも、突き詰めれば。
「どれだけ熱狂できるのか?」
それはつまり、逆に言うならどれだけ
ニヒリズムに引っ張られないか?
それが一番大事なことで。
「自分が好きだからやっている」
という瞬間がある人生。
僕はそうありたい。
ということで――。
本日は映画『ひゃくえむ。』上映最終日。
勢いで、なんと!!!
3回目のチケット買っちゃいました。笑
「一体どんだけ好きなの純ちゃん?」
「自分が好きだからやっている」という瞬間がある人生
フロンターレもそうだし、
ひゃくえむもそうだ。
好きだから見に行く。
何度見ても最高のラストシーン。
エンドロールの間に流れる幸せな涙。
「今日も堪能しようぜ!」
良い1日を。

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